名前 と 認識
自身の内にしろ外にしろ、事象に道理を見い出し名前を与え、アプローチの手段を考えてようやく安心できる。
或いは、そうしなくては安心できない。
これは、思考する存在である人間の業というか習性の様なものなのかもしれません。
そうすることで、多くの事柄に対処し、扱えるようにしてきたわけですが、同時に、ものごとをあるがままに受け入れ、思うままに接するという事は、どんどん苦手になっている気がします。
どちらが良いという話ではないですが、ちょっと勿体ない事かもしれないとは思いますね。
何が楽しいのかわかりませんが、元気よく声をあげながら冬の公園を駆け回る、見も知らぬ子どもたちを眺めて、ふと思ったのでした。
小さな頃、多くのことが楽しかったと同時に、今では何でもないあれこれがとても怖かった。
大人になった今、死ぬこと死なれること以外の恐怖は大概がどうにかなる身になったわけですが、その分、見えなくなったことも随分とある気がします。
あるいは、単に目を意識を向けなくなっただけで、未だ変わらずそこにあるんですかね。