鳥追い と 後悔
基本的に後悔はしない(正確には、後悔しそうになったら、そうすまいと思い直す)様にしています。
ですが今回は久々に「後悔」しています。
郷里からFaceTime 通信が入りまして。
何ごとかと思えば、郷里の冬の年中行事「鳥追い」が来ていたので、その中継をしてくれるとのこと。
鳥追いというのは、中学二年生(14歳)以下の子供達が集落の家々を巡り、太鼓を叩きながら害鳥を追い払う唄を歌って回るという行事です。
私も子供の頃にやりましたが、この時に各家から貰えるご祝儀が、お年玉と並ぶ貴重な現金収入だった事を憶えています。
また、「オヤ」と呼ばれる一番上の年齢では、吹雪の中、夜中まで複数回に渡って集落内を練り歩き、夜は神社に泊まって徹夜で夜明かしするという成人の儀式的な意味合いもありました。
そんな鳥追いが、今年で終わりになるそうです。
我が郷里も過疎化が進み、もはや鳥追いを行うだけの子どもがいないというのが、その理由とのこと。
両親はそれを知って、せめて最後の鳥追いを見せてやりたいとFaceTime をつないでくれたのでした。
実はこの週末、郷里は何年ぶりかと思われる降雪量に見舞われました。
そこで、金曜日の時点では、それを知って雪かきに帰省するつもりでいたのですが、想った以上に雪が多い様子で、このままでは帰省したは良いが、月曜に帰阪できなくなる可能性が高いと判断。
帰省を取り止めたのでした。
あの時、取り止めずに帰省していれば、最後の鳥追いを妻に直に見せてやる事も出来たのに。
帰阪の遅れぐらい、その分をフォローする程度ならどうにかなっただろうに。
もはや、それもかないません。
全ては私の選択結果である以上、本来は後悔する筋の事ではないのです。
しかし、もはやどうしようもない流れとともに、いつの間にか去ってしまった自分を構成する何かを思うと、後悔というか寂しさを感じるのでした。
ああ、これは後悔と言うより寂寥感と呼ぶべきなのでしょうかね。
郷里を離れ、こちらに生活基盤を築いた者が、少子化で消え行く行事に寂寥感だなどと片腹痛い身勝手な感傷なのでしょうけれど。