物語性のあるリンク集
最近、ある方から聞いたお話。
「リンク集系の記事はストーリー性がだいじ。」 *01【リンク集系の記事はストーリー性がだいじ】原文ままじゃありません。私のEvernote メモからです。文意はまんまなので、たぶん問題ないはず。
言われてみると、まったくその通りで、ただリンク集をざっと並べるより、散りばめられたリンクを追って行くことで物語を読むような楽しみが得られれば、各リンクに読み手が感じたことや、記事自体への興味も記憶に残りやすい。
とても納得できる考え方でした。
地図の様な拡がりを感じさせるリンク集
ただ、私はその方の話をお聞きしたときに、ちょっと引っ掛かる気持ちがありました。
というのも、私はその方のリンク集系の記事に物語性とはまた違うものも感じていたからです。
それは「地図の視点」です。
その方のリンク集は、「物語性」というよりは、ある一定のテーマを主軸にすえつつ多岐にわたるブログ記事を紹介することで、その「拡がり」を読み手の前に展開してくれています。
これは膨大な記事をチェックし、比較しなければできないことです。 *02【膨大な記事をチェックし、比較しなければできない】卒論の諮問で参考文献リストに「狭すぎ」と言われた意味が、今はよくわかります。
メインストリートを見せつつも、脇道、抜け道、分かれ道を読み手の前に示してみせる。
読み手はその「地図」をどう読み、どこへ行くかを考える楽しみがあります。
ブログの記事をどう読むか
「物語性」と「地図の視点」、どちらが優れているという話ではありません。
どちらも「リンク集」という、ともすればただ読み捨てられる情報の羅列に対して、違う意味合いと表情をもたせる工夫です。
そこには書き手の目に見えない苦心と楽しみが秘められています。
私は、その記事に潜む様々な書き手の試行錯誤を感じ取れたときが一番楽しい。
それはひょっとしたら的外れかもしれません。
単なる読み手のひとり合点かも。
ですが、記事の端々にある、書き手のちょっとしたコメントや、オフ会でお会いした時の会話から、その読み方に対する答え合わせ的なものを得られるときがあります。
そんなとき、私は「やっぱり!」と心のなかで快哉をあげるのです。
感じたものは出せるはず(たぶん)
ブログ記事に限った話ではありませんが、物事に何かを感じたとき、それは自分の中にある何かと呼応して浮かび上がるものです。
もし何かに「すばらしい」と感じたとすれば、それはあなたの中に「すばらしいと感じる何か」が備わっていたということです。
でしたら、次はそれを「出す」番です。
どう出すか、どの程度出すか、など難しいことは後でかまいません。
とにかく出してみる。
そして、それを誰か1人でもいい、誰かに届けてみる。
するとそこには何らかの反応があるはずです。
(無論、「無反応」も含めて。)
そして、その反応に対して、また次のアクションを起こして行く。
それらが互いに響き合って、また知らない世界や知らない自分が見えてくる。
それは、とても楽しいことではないでしょうか。