道理 と 理解
「理想」という言葉における「理」の字には、少なくとも三つの要素があると考えています。
1つは「道理」。
これは、理想を実現するための筋道立てた考え方です。
これが無ければ、それは理想ではなく夢想です。
もう1つは「理解」。
これは、理想を実現するために必要な事柄を自分が認識しているか、周囲に納得して貰えるかです。
これが無ければ、それは理想ではなく妄想です。
道理を立てて理解を得る。
そうして初めて理想は形を成して行くのです。
と、偉そうな物言いをしましたが、実は職場で結構見かけるんですよね。
「道理」はあるけれど「理解」が足りていないと思しき人を。
そういう人が説く理想は、正しいのですが、まず実現しません。
現状の歪みを受け入れられず、拒絶したまま打ちのめされて行きます。
それを見るのが凄く残念で。
どうにか出来ないものかなと考えています。
私がファシリテーターになれれば良いのですが。
ファシリテーターとしては、少々(いや、かなり?)先走り過ぎるんですよね、私も。
難しいなあ。
あ。
私も自分のありたい「ファシリテーター」という働きに対して、理解が足りていないのか…。