日刊 あおのうま Vol.1394(2015.01.18)【ただそれを行った者のみが】

投稿者: | 2015/01/18

渇望 と 充足

私はかつてエンターテイナーになりたいと思いながら、それを諦めた事があります。
かれこれ20年近く昔になりますかね。

諦めた理由は、自身の中の渇望が薄いことに気付いたからでした。

郷里を離れ、自身の将来に希望を見い出せず、そんな状態から「それでも何か」という飢えが行動のエネルギーになっていたのですが、友人達に囲まれ、日々の生活に楽しみを見出し始めた結果、急速にその「飢え」が萎んでいくのを感じました。

それを自覚したとき「ああ、私はエンターテイナーにはなれないな。何かに満たされた途端に手が止まるな。」と。
そう気付いてしまったんです。

その後、現在。
何となく生きてきて、にも関わらずそこそこ充たされ続けている自分が居て。
やはり人を惹きつける何かを生み出すには、渇望というか充たされない何かが要るなあと思うわけですが。
先日、その考えに疑問を感じる出来事がありました。

「人を惹きつける輝きを生み出そうとしたら、本人にある程度の余裕が無いと難しい」といった感じの論 *01これは私の理解違いである可能性もあります。ただ、そう私が理解した結果、今回の考えに至りました。 を聞いたのです。

言われてみればまったくその通りで、何かに追い詰められ、心にも時間にも余裕が無い状態で生み出されるものと、生活や心理状態を気にする必要もなく、その行為だけに没頭できる状態で生み出されるもの、どちらが練り込まれた物になるかは自明の理と言えるでしょう。

少ない時間、追い詰められた心理状態、そんな極限状況下で生み出される物が輝きを放つ事も確かに納得できます。
しかし、それは崖っぷちに咲く花の美しさであり、それは苛烈な淘汰の結果部分だけを目にしているだけなのかもしれません。

してみれば、飢えているか充たされているかというのは、単に身を置く状況の違いでしかなくて、やはり「それを世に問うたか否か」という行動だけが、そこに至る道を拓くのかもしれません。

 



 

脚注

脚注
01 これは私の理解違いである可能性もあります。ただ、そう私が理解した結果、今回の考えに至りました。

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