ハックするライフは見えているか?
今回のタイトルを見て、「あれ?」と思われた方、仲良くなれるかもしれません。 *01え、どーでもいいですか?そうですか。
これは @kazumoto さんのブログ「Find the meaning of my life.」の名エントリー「【雑感】ハックするライフは決まっているか?」を拝借したものです。 *02微妙に変えているあたりが、パクったっぽいですが。
【雑感】ハックするライフは決まっているか? | Find the meaning of my life.
以下、その記事より抜粋。
人生のハンドルは自ら操ろうと思うなら、「私は一体何がしたいのか?」どうもこの根本的な問いに対する答えをじっくり見つける必要がありそうです。この答えをちゃんと設定していなければ、どんなツールもテクニックも、ライフハックも意味を成さないのでしょう。そもそもライフが設定されていないのですから、ハックすることも無理ですよね。
抜粋ここまで。
まったく耳の痛い話です。
「私は一体何がしたいのか?」
先日のエントリーで、私のGTDがコケていることを書きましたが、
それも結局はここに行き着くと考えています。
収集:私は一体何がしたいのか?を自分に問う作業
「私は一体何がしたいのか?」
この問いに対する答えは、いくつもあります。
あれもしたい、これもしたい、あれも気になる、これも気になる…。
GTDの「収集」というステップは、
まさにこの「何がしたいのか(しなければならないのか)」を掘り起こす作業です。
近くは夕食の献立から、遠くは自分が入る墓穴の心配まで、
「気になること」を全て書き出してInboxと呼ばれる場所に集めて行きます。
そして、Inboxは、定期的に処理・整理して空にする。
その上で、新たに「気になること」があれば、その都度Inboxに追加して行く。
これがGTDの「収集」ステップです。
収集:私の場合(これまで)
私の場合、基本的にOmniFocusというGTD用のアプリを使っていました。
気になることをひたすらOmniFocusのInboxに放り込みます。
ただし、このOmniFocusというアプリ、Windows版というのが存在しません。
Mac, iPhone, iPad 版しかないのです。
なので、職場などのWindows環境ではRHODIAなどの紙メモを使って「収集」し、
それを後でOmniFocusのInboxに入力していました。
また、iPhoneやiPadが使用できる状況であれば、
iPhone版やiPad版のOmniFocusから入力していました。
収集:私の場合(これから)
現在、コケたGTDを立て直すべく、GTDの各フローを見なおし中です。
そんなわけで、まずはこの「収集」について見なおしてみました。
結果
基本的に、これまで通り。
基本的に、これまで通りです。
収集に関しては、別段問題になるような不都合はありませんでした。
なので、これからもOmniFocus + 紙メモ で行く予定です。
収集:改良を試みる点
「これまで通り」といっても、まるっきりそのままというわけではありません。
不足していた点がありましたので、その点について改良を試みます。
私の「収集」において不足していた点。
それは「Inboxを定期的に空にすること」です。 *03正確には、これは「処理」ステップに属する内容かもしれません。Inboxを空にするには、「処理」を行う必要があるからです。
常に何かが入っているInbox
OmniFocusとRHODIAのおかげで、「気になること」を「集める」作業はそれなりに機能していました。
しかし、もうひとつの大原則「Inboxは必ず定期的に空にする」が出来ていなかったのです。
結果、どうなったかと言うと、「常に何かが入っているInbox」になってしまいました。
ある程度の増減こそあれ、いつ見ても何か「気になること」が入っているInbox。
これは、どの様な点で不味かったのでしょうか?
キーワードは「ストレス」
キーワードは「ストレス」です。
GTDの原典と呼ばれる本の副題は「ストレスフリーの整理術」となっています。
そこからもわかる様に、GTDの各ステップは「ストレスを除くこと」を目的に考えられています。
逆を言うと、GTDの原則に従わない部分があれば、
それは意図する効果(ストレスフリー)を発揮してくれないわけです。
Inboxを「定期的に」空にする効果
では、Inboxを「定期的に」空にする効果とは何でしょう?
これは「必ずやってくるカタルシス *04「開放感」と言い換えても良いかもしれません。 だと考えます。
Inboxの中味は「気になること」です。
それは、いわば「人生における未達成の欠片」です。
一箇所に集めた「ストレスの種」です。
それが、「常に何か入っている」のと、
「定期的に空になる」のとでは、どちらが良いでしょうか?
答えは聞くまでもないでしょう。
はじめて「収集」を行ったときの感動
GTDに挑戦したことのある人なら、大抵の方が感じたことがあるはずです。
はじめての「収集」が済んだ後の、あの何ともいえない「スッキリ感」を。
定期的にInboxを空にすると言うことは、あの「スッキリ感」を定期的に実感することになります。
「収集」を成立させるために
人生は苦悩の連続です。
気になることがない状態など、基本的になかなか巡り合えません。
意図して作り出さない限りは。
逆を言えば、例え一時的にでも、そんな状態を作り出せる事は、とても素晴らしい事だと言えます。
定期的にInboxを空にする。
これがあってこそ、初めて「ストレスフリーのための収集」が成立するわけです。
「定期的」の持つ効果
Inboxを「空にすれば良い」なら、別に「定期的」じゃなくても良いのでは?
と言う考えもあります。 *05実際、GTDが破綻する前の私がそうでした。
しかし、それは「定期的の効果」を理解出来ていないのです。
「定期的に」Inboxを空にすると言う原則は、以下の様なメリットを持っています。
必ずくる
「定期的」と言うことは時間と共に「必ずくる」と言うことです。
その時、どの様な状況にあるかは関係ありません。
「それってしんどいんじゃね?」と思われるかもしれませんが、考えても見てください。
しんどい状況で区切りがつかないのと、
しんどいけれど、取り敢えずいったん区切りがつくのと、
どちらが良いですか?
区切られた時間、何かに取り組んだと言うのは、充分な成果です。
もし、まだやることが残っているとしても、
それは新たなアクションとして扱うわけです。
これにより、「完了するまで何も手に入らない大きな課題」を、
「成果を実感できる小さな課題の積み重ね」に変えることができます。
残りどれだけ?が読みやすい
時間というのは伸びたり縮んだりしません。 *06なんか小難しい物理学とかの分野に踏み込んだら別かもしれませんが、そんなもの、ここでは知ったこっちゃありません。
つまり、「残りどれだけ?」が常に明確です。
終わるかなー、どうかなーと不安に駆られながら取り組む必要はありません。
自分で定めた時刻になれば、それでいったんケリが着くわけです。
これにより、いつ終わるとも知れない苦行に立ち向かうのではなく、
ちゃんと終わりのある、ちょっとした苦労の積み重ねに変えることができます。
全ての「気になること」に触れられる
Inboxを定期的に空にするには、
Inbox内の全ての内容にひと通り触れなければなりません。
例え「次に見送る」という決断を下すにしても、
そのためにはInbox内の「気になること」に目を通さなければなりません。
これは、忘備録として非常に強力です。
これにより「あ、あれ忘れていた!」を減らし、
自分が抱えている物事の量と状況を安定して把握できるようになります。
あれ?これってポモドーロ…
気付かれた方も多いと思います。
そう!これはポモドーロ・テクニックのメリットと、とても似ていますね。
※ポモドーロテクニックの考察については、@rashita2 さんのブログ、R-Style の以下の記事がとても参考になりますので、是非、ご一読を。
・ポモドーロテクニックについて1
・ポモドーロテクニックについて2
・ポモドーロテクニックについて3
私は、あれこれとライフハック手法に手を出し過ぎて、結局どれも中途半端でした。
しかし、GTDのステップの中には、ちゃんとポモドーロ・テクニックと通じる要素が含まれていたわけです。
これをちゃんと認識しながら取り組んでいれば、GTDとポモドーロ・テクニックはバラバラな手法でなく、互いに長所を引き出し、不足を補い合う、連携した手法として実践できていたのではないかと考えています。
まとめ
例によってダラダラと長くなってしまいましたので、まとめ。
これも初心に戻って、四行日記形式で。
【事実】
私のGTD「収集」には、「定期的にInboxを空にする」と言う原則が抜けていた。
【発見】
「定期的にInboxを空にする」事には、大きなメリットがある。
【教訓】
原則を理解すれば、それは複数の手法を実践するための共通のフレームになり得る。
【宣言】
毎日、必ずInboxを空にする。
以上。
おまけ
振り返ってみれば、
随分と以前からGTD関連のブログで口を酸っぱくして言われていることですね。
「Inboxを定期的に空にする」ってのは。
しかし、私の中では「空にする」が大きなウェイトを占め過ぎていて、
「定期的」がかなりおろそかになっていました。
今、こうして見ると、むしろ「定期的」の方にこそ大きな意義がありそうです。
これも、ちゃんと手法の背景にある思考を理解出来ていなかった証拠ですね。
お恥ずかしい限りです。