むりゅかのそぞろごと Vol.8

投稿者: | 2017/03/29

朝、頭のストレッチのつもりで考えごとをする。
それをまとめて、Twitterで呟くのを日課としている。
お題は、ふと思いついたことや何処からか聞こえてきた会話、見かけたものなどだ。
今日は朝に見かけた下記ツイートを元に考えてみた。

「選択をしない」という選択について。

「選択をしない」というのが、提示された複数の選択肢のうちの、いずれも選ばないという場合。
それはどちらも、あるいはどれも選ばないということだ。
つまり、提示された選択肢以外の選択肢を「選択した」と言える。

そもそも「選択する」という状況が成立するためには何が必要だろうか。
選ぶ主体と選択肢。
詳しく言えば、「選ぶという行為を認識しており、実行できる能力のある存在」と
「仮定ではなく、どちら、あるいはどれも選択することが実際に可能であること」が前提となるのではないか。

まず、選ぶという行為自体を主体が認識していない場合、選択するもしないもないだろう。
おそらく、その人(動物でもいいが)は選択することを認識していない以上、選択肢を選択肢と認識しない。
例えば、複数の分かれ道があったとしても目に入らなければ、それは一本道を往くのと同じだ。
選ぶこともなく、ただ一つを実行するのみとなる。
それに、選択した選択肢を実行できる能力がなければ、選択自体が成立しないだろう。

また「選択肢」と言いつつ、実際には選べない項目である場合。
例えば、100円の品にするか、500円の品にするか。これは2つの選択肢と言える。
これが100万円と500万円でも、すごく頑張る必要があるが、かろうじて選択肢と言える。
だが、1億円と5億円ならばどうか。よほどの金持ちでなければ、どちらであろうと実行できるとは思えない。
実際の経済力を無視して、つまりただの仮定として選ぶのであれば、話は別だ。
自分が資産家や企業、あるいは自治体などの立場と仮定して「選択する」というシミュレーション。
だが、その選択は個人として選ぶ行為とは意味が違う。
このように実行できない選択肢が複数またはすべてであったとして、「選ばないこと」しかできないとすれば、
それは選択したと言えるのか。
よって、主体が選ぶという行為を認識し、またその実行を可能とする能力を有し、選択肢として提示されたものが
本当にどれも(どれだけの労力・リスクを支払う必要があるとしても)実際に実行可能であるならば、
「選択をしない」というのは「第(選択肢の数+1)の選択肢」を選択したことになるのではないかと思う。

そして、もうひとつの問い。
「今後いっさいの選択をしない」という選択は意識に関してどのような意味を持つか。

人であれ動物であれ、目の間に選択肢だと思えるものが提示され、それを認識したら、検討の俎上に載せないことはできない。ごく当たり前の反応として、何かを認識したら、それについて考えずにはいられないのだ。
認識した以上は、提示された選択肢のどれかを選ぶか、それら以外、つまり「選択しない」という選択肢を選択するかの
どちらかしかない。
人間だけでなく動物も、目の前にあるものを食べるか食べないかなどの選択をし続けて生きている。
まさに生きることは選択の連続だ。

そう考えると、いっさい選択しないというのは植物のように生きることに他ならない。
植物は、水分や日光を求めて根を張り葉を茂らせるが、それらは状況に対する反応であり、選んでそうするのではない。
芽が膨らまないのは必要な条件が満たされていないからであって、「やっぱり芽を膨らませるのはやめよう」などと
植物が選んだわけではないだろう。
よって、意識を有する存在が「いっさいの選択をしない選択」をすることは非常に困難であり、
それは物事を認識する能力自体を放棄することに等しい意味を持つと考える。

(いつもは、自分で問題を作って自分で回答するようなものなので、一時的かもしれないが「そっか、そうなんだ」と
ある種の腹落ち感を感じるのだが、今回の問いは自家製ではないため、その感覚がほぼないのが新鮮だった)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください