先日久し振りに会った知人は、体の一部が不自由な人だ。
仮にK嬢としよう。
私は以前から彼女をとても尊敬している。
体の不自由さをものともしない強さや姿勢、生き方に圧倒される。
(一度だけ、仕事でうまくいかない原因が、この不自由さのためかも
しれないという弱音を聞いたことがあるが、そのときだけだ)
相変わらず彼女は前向きだった。
できないことはあるけれど、補う方法はいろいろある。
できることを見つけて、試行錯誤を厭わないのだ。
やはり凄いと感心したところで、ふと気がついた。
不自由さに負けないことは、確かにすごいことだ。
だが、彼女自身は不自由さを飲み込んだ上で、できることをしている。
私にはないその不自由さは、彼女にとっては当たり前のことなのだ。
それを偉いと讃えることは、むしろ失礼に当たるのかもしれない。
彼女の条件を見て我が身を振り返り、思った。
自分の当たり前に比べて、何という不利を彼女は背負っているのだろうかと。
いや、そもそも不利とはどういう言い草なのか。
例えば段差を越える場合に、両足が不自由なく動くほうが楽に行えるだろうが、
仮に片足が不自由であったならば、苦労するし工夫もいるだろう。
だがそれは、片方が優れていたり普通である、反対にもう片方が劣っていたり異常というのではない。
ただ足の動かせる範囲が違うだけだ。
目的に対して、向き不向きや有利・不利はあるが、それを優劣とするのは間違っているし、意味がないことだ。
そう思っていたのに、平均値を逸脱した存在に対して寛容でない社会構造から受けた影響を、
私は跳ね除けることができなかった。
人は、自分の持つ能力や特性を冷静に把握していると思いがちだ。
けれども実際には、さまざまな影響を受けた価値観から逃れられず、
さほど適切な自己評価もできてはいないことが多い。
何か事にあたるとき、その捉え方の歪みは、容易に過信や不安に繋がる。
そして、今回のように他者のそれを意識したときにも、無意識に自分と比較し、
何らかの線や枠を持ち出して判断を下したりする。
人が人である以上、真の意味であるがままに自分を評価することは難しい。
というか不可能だろう。
だからといって、それらの影響を受けるがままに放置するのもまた違うと思う。
自分と他者が持つ条件は、それぞれ異なって当たり前であり、それはただの違いでしかない。
それぞれが異なった手札を持ち、各自で工夫したり研磨していくのが生きるということなのだ。
(もし、ただ違うという以外の要素を付け加えた判断をしたときは、そこには何かの影響が潜んでいる。
それがどこから来たものか、どのようなものなのかを考えることだ)