まず動くこと。些細なことでいい、というか些細な方がいい。(そもそも自分の能力を越えた行動など実行不可能だ)動いて結果を出せば、やるべきことが明らかになる。勿論、わざわざ動かなくても困りはしない。その場合、いつまで経っても他者から突き付けられたものを選ばされ続けることになるだけだ。
— MuRyuka (@muryuka) January 23, 2017
生き方を選ぶなど、無理なことだと感じる。
選ぶ余地などないと。
だが、生きることは、選択の連続だ。
つまり選ぶことだらけである。
こんな風に生きたいと希望する。
望むだけなら、誰でも、何とでも思う。
その望みを選択に繋げるのは何か。
生きることは選択の連続ではあるが、単に選択肢を受け止めるのではない。
椅子に座り、机上の紙に書かれた問題に答えるだけならば、大したことではない。
(その場合、おのずと答えが決まるだろう)
実際に生きることは、自分自身が動きながら問題に答えるようなものだ。
スポーツに例えると、障害走というよりは、バスケットボールにおいて、動きながらパスを受け止め、
走りながら周囲の状況を見極めて、誰かにボールを渡すような動きに似ている。
普通、これらの動きは、いちいち考えたり意識したりはしない。
体が勝手に動く前提で、誰にパスをするのか、それとも自分がボールを保持するのかを考えて選択する。
走ることやボールを持つことは、考えて行うわけではなく、それらの行動は無意識で実行されている。
その無意識の行動の上に、考えた結果の選択がある。
つまり、無意識にできることを増やすと、選択時のレベル(高度と言ってもいい)が上がることになる。
ただ、それを希望するかどうかは、人によるだろう。
何かに慣れて、過不足のない動きを身に付けた後、どうするのか。
最適化したことで満足するのもありだ。
もしくは次の領域を目指すこともあるだろう。
その場合、せっかく慣れたものを、今以上のものにしなくてはならない。
そこを目指す意志があるのか、言い換えると、現状を変えたいと思うのか。
それは現状をどう認識するかによるだろう。
つまり、センサーの感度による。
感度の高さは、知識の量や見識の有無に左右される事が多い。
感度が高いほど、はっきりと自分の位置がわかる
だが、感度は高い方がいいとも言い切れない。
感度の高さが不幸に繋がる場合もある。
というより、不幸に繋げるかどうかは、その人次第だ。
おそらく、その違いは「動くかどうか」なのだろう。
動かなければ、変化は起こらない。(ただし時間は流れ、周囲は変化する)
自分が置かれている現状を、鮮明に詳細に認識しながら停滞するのは、たぶん幸せでない。
卵が先か鶏が先かと言われるが、「選ぶこと」と「動くこと」ならば、やはり動くのが先だろう。
“まず動くこと。些細でもいい、というか些細な方がいい。
(そもそも自分の能力を越えた行動など実行できない)
動いて結果を出せば、やるべきことが明らかになる。
勿論、わざわざ動かなくても困りはしない。
その場合、いつまで経っても他者から突き付けられたものを選ばされ続けることになるだけだ。”
(いきなり死んでしまうこと以外は、だいたい些細なことしかできないのだ)