日刊 あおのうま Vol.982(2013.07.26)【ただこの幸せを伝えたい】

投稿者: | 2013/07/26

カレンダーを見ていないわけではないのですが、今日が金曜日だということを失念しておりました。
今週の頭は職場の夏期休暇でお休みでしたので、曜日感覚がズレていた様です。

時間感覚は「体内時計」と呼ぶのに、曜日感覚は「体内カレンダー」とはあまり言いません。

この「時計」と「カレンダー」の狭間に、人間が把握できる時間感覚の一般的な境界線がありそうだなーなどと。
毎度ながら変なことを思っております。

 

隣のテーブル と 食べたい料理

ここ数日、RSSチェックをほとんどしておりません。

今週は夏期休暇明けということもあって、比較的まともに仕事をしておりました。
普段ほとんどしない残業なんかもしちゃったりして。
それなりにバタバタしていたのです。

RSSチェックをしなかったからといって、別段生活に困るわけではありません。
むしろ、その分の時間を他のことに振り分けることが可能になりますから、良いことかもしれません。

しかし、RSSチェックをしなかった数日間、不思議なことに仕事以外のことにあまり頭が回らなかったのです。

仕事は休暇明けという状況的な圧力もあってか、それなりにノッてやれました。
ところが、趣味のプログラミングやブログ、生活の見直しなどは、気にこそなっていながら、殆んど何もできませんでした。

振り返ってみるに、ブログを読むという行為は、私にとって一種の触媒になっていた様です。

触媒たる情報の摂取が無いと、日常で発生する出来ごとには反応できるのですが、自身の中から何かを引き出して、それを行動まで引き上げるというレベルに届かせることが難しいのすね。

外部から刺激を受けないと、自己の欲求すら具現化できないのか?と言われると、返す言葉もありませんが。

彼我の対照は、内観の必須ではありませんが、手軽かつ有効な手段ではあるということです。
ちょうど居酒屋で隣のテーブルが食べている料理を見て「あ、私もあれ食べたい!」と思う様に。

 

鰻 と 鮪

今日知ったのですが、鰻だけでなく鮪の内の何種かも絶滅危惧種としてレッドリストに載っているのですね。


Twitter, Facebook でも言いましたが、私は「地球のために」とかいう気持ち悪いお題目を唱える気は毛頭なくて、ただ自分が美味しく食べた鰻や鮪を、自分たちの子供や孫__私の場合は甥っ子たち__に残したいだけだったりします。

食べるのをやめたところで、漁獲量が減るわけではないという向きの論も見かけますが、少なくとも「食べない」という行為は自分の意志を示すことにはつながると思うわけです。

だって、わざわざ漁獲量制限(禁止)のためにデモやら保護活動やらします?
しないでしょう。

個人が一番簡単にできることは「食べない」ことだと思うんですよね。

 

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