自分の手札を再確認するのは、あまり楽しくない行為だ。だが、そうせざるを得ない機会がある。手札で勝負するとき、そして他人の手札を見て、自分の手札を振り返るときだ。特に、見比べて違っている点を、ただの違いと認めるのは大事だ。そこに優劣を見出したところで、何の役にも立たないのだから。
— MuRyuka (@muryuka) January 28, 2017
自分の手札を再確認するのは、たぶん、あまり楽しくない行為だ。
だが、そうせざるを得ない機会がある。
手札で勝負するとき、そして他人の手札を見て自分の手札を振り返るときだ。
勿論、日ごろ自分の行動を組み立てるときにも、意識はしているだろう。
けれども、何せ自分のことだ。
当たり前という感覚が働いて、利点や欠点を直視せず、ぼんやりと見てしまう。
そして、勝負をするとき目に映る手札は、実は眼鏡越しなのだと思う。
自覚することに優れた人は、色も度も入っていない眼鏡越しに見る。
つまり何も歪めず、あるがままに自分の能力や特性を認めることができる。
これは、限りなく近い人は居ると思うが、多かれ少なかれバイアスが必ず働くので、
無色透明は不可能だろう。
たいていの人は、色が入った眼鏡や度数が低かったり高かったりする眼鏡で手札を見る。
そうすると、手札が歪んで見えたり、色によっては視界から消えたりと正しく見ることができない。
だから勝負をかけるときに、手札の能力を過信したり、逆に低く見積もり過ぎてしまったりする。
そして、他人の手札と見比べるとき。
これもなかなか悩ましい。
まず、眼鏡越しなのは、こちらも同様である。
それに加えて、ただの違いでしかないものに対し、高低や貴賎といった基準を持ち出してしまうことがある。
あまり、というかはっきり言って意味のない行為だと思う。
なぜなら、それはある線のこちら側に自分を置いて、向こう側にいる相手より上であると安心したり、
自分はすごい人に比べて全然駄目だと不安になったりするような行為でしかないからだ。
(もちろん、人が人である以上、ある程度は補正して見る必要があるのも事実だ。
あるがままに自分を直視できる人間なんて、どれほども居ないだろう。
だから目を傷めないよう眼鏡に色を入れたり、ちょうどいい視力に度数を調整するのは、
一概に悪いこととも言いきれない)
自分と相手の手札を見比べたときに違っている点があっても、違う人間なのだから当たり前で、
それはただの違いであると認識すること。
ある状況への対応に向いているとか、逆に不利に働くという点で違いはあるが、
手札そのものの価値には関係がない。
与えられたものに違いはあれども、それぞれの存在自体に優劣はない。
ただ、与えられたものでやり抜くのみだ。
(その枠や線は、なぜ引かれたのか、また何によって引かれたのかを考えてみること)