日刊 あおのうま Vol.1484(2015.04.19)【生まれたときからそこにいる】

投稿者: | 2015/04/19

認識 と 拒絶

人は誰でもいつか死にます。
人生は有限で、しかも待ってくれません。

しかし「お前はそれを認識しているか」と自問すると、途端に頭にもやがかかったかの様に思考が迷走を始めます。

残された時間が限られており、しかもそれは不安定で、いつ何かの事故や病気で予定外の終焉を迎えるかわかりません。

であるならば、自分に残された時間は最大に見てもどれぐらいで、そこに対してやりたい事はどれだけで、それにはどの程度の時間が必要で…と、お財布の中身を睨みながら買い物をする様に、人生設計を立てることが出来るはずなのです。

無論、買い物と違い時間に値札はありませんから、1年で済むはずの事が3年かかったり、そもそも着手すら出来なかったりとう事もあるでしょう。

それでも、自分の手持ち時間が有限であるという認識があるならば、それを何にどれだけ割り振るのかという概算は行って然るべきはずです。

ですが、実際には今日もなんとなく過ごして、1日の終わりを迎えようとしています。
時間というお金より貴重な増えることのないリソースを浪費している。

タスクシュートで日々の時間を見積り、実行し、補整するという事の有用性を痛いほど感じていながら、中長期スパンになると、途端にそれが出来なくなっている自分に気付きます。

何故でしょう。

タスクシュートは非常にシンプルかつ強力な道理です。
短期であろうと中長期であろうと、構造的には何の問題もなく適用可能なメソッドであるはずなのに。

そこには、死という逃れ得ぬ結末に対する恐怖が横たわっている気がしています。

見たくないのです。
知りたくないのです。

例えそこに逃れようもなく立っているとしても。

この不可分の恐ろしい隣人を何とかして目を逸らさずに見据える方法はないものか。
40歳の坂を越えて人生のゴールが見えてきたいま、強く思うのでした。

 



 

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