日刊 あおのうま Vol.1228(2014.03.30)【どれでもいい、どうでもいい】

投稿者: | 2014/03/30

アドラー と ユング

全ては自身の選択の上にあるという論には全く否やは無いのですが、それは別に外的要因の存在を否定することにはならんと思うんですよね。

例えば、自身の幸不幸を決定づけるのは自分自身という論には賛同するのですが、だからと言ってトラウマの存在を否定するのはどうなの?と。

と言うより、私個人としては理由なんぞ何でもええと思うわけですよ。
何なら、そこに転がっている空き缶のせいにしたっていい。

そんで、その空き缶を蹴っ飛ばしてスッキリできるなら、それでいいじゃないかと。

逆に空き缶100個蹴っ飛ばそうとスッキリしない場合だってあるわけで。
そんな時は、自分の中をもう1回見なおしてみればいい。

たぶんそこには、蹴っ飛ばすべきドラム缶が転がっているはずだから。

つまり、どっちも手段であって、片方に居着く必要はないんじゃないかなと。

学者さんなら立場や論を明確にして対論を封じ込めねばならんのでしょうが、いちユーザーとしては使えりゃ何だっていいと思うのでした。

嫌われる勇気
嫌われる勇気

posted with amazlet at 14.03.30
ダイヤモンド社 (2013-12-16)

おまけ

ただ、妻に言わせれば「おが屑の中にある玉子を掴めればいいのであって、そこにおが屑があることはどうでもいい」そうなんですけどね。
つまり「気に入らん理由を挙げて何か得あるの?」と。

そう言われると、まったく以ってごもっともなのでした。

 



 

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